ה神の左手?
絶望的な点差で迎えた後半戦親番、ユキは七対子一向聴。ダヴァンのチーを見て、和了り易さと得点の高さと、どちらを優先すべきか悩みます。そして
先輩たちが決勝にいけますように
ユキらしい思いに牌が答えたのでしょうか、赤五筒を引いて七対子を聴牌すると、立直を決断。なぜか対局相手に左手を使う許可を求め、これまたなぜかダヴァンと絹恵は「はい」と即答。和だけがその意味を理解できていない様子です。すると…なんという事でしょう!
ユキの左手に、古代ヘブライ文字のようなものが浮かび、光を放ち始めました。
ユキ「リーチ」(八筒切り)
ダヴァン「ポン」(一発消しである!)
ユキ(ツモ切り)
ダヴァン『鳴いたおかゲカ 2回戦と違って真野が一発ツモではありませんでしタネ』
あぁあっと、しかしここでダヴァン聴牌。
つまり…デュエル!
決闘といいつつ、これまでは実質ダヴァンによる一方的な処刑だったんじゃね?
果たしてユキはこの決闘に生き残れるのかーッ!?(点棒的にシャレにならん)
ここでユキ、心に唱えた。何を?
そは荒野に水湧き出で砂漠に川流るべければなり…!!
すると
ウラ乗って親の倍満!
しかしダヴァンさん、この余裕の表情。圧倒的な点差の前では、頭を撃ち抜かれても人は死なない。
いや、絹恵が解説していたように、「左手を使って、1日に1回だけ満貫以上を和了る」のがユキの能力だとすれば、今の倍満ツモでユキはもう撃ち止めだ、と見切ってのことなのでしょう。
しかしユキは諦めません。
誘惑に陥らぬよう目を覚ましかつ祈れ
実に心は熟すとも肉体弱きなり
反撃、開始──…!!
旧約聖書>イザヤ書35章
荒野とうるほひなき地とはたのしみ、沙漠はよろこびて番紅の花のごとくに咲かがやかん。盛に咲かがやきてよろこび且よろこび且うたひ、レバノンの榮をえカルメルおよびシヤロンの美しきを得ん。かれらはエホバのさかえを見われらの神のうるはしきを見るべし。なんぢら萎たる手をつよくし弱りたる膝をすこやかにせよ。心さわがしきものに對ていへ、なんぢら雄々しかれ懼るるなかれ、なんぢらの神をみよ、刑罰きたり神の報きたらん、神きたりてなんぢらを救ひたまふべし。そのとき瞽者の目はひらけ聾者の耳はあくことを得べし。そのとき跛者は鹿の如くにとびはしり唖者の舌はうたうたはん、そは荒野に水わきいで沙漠に川ながるべければなり。やけたる沙は池となり、うるほひなき地はみづの源となり、野犬のふしたるすみかは蘆葦のしげりあふ所となるべし。かしこに大路あり、そのみちは聖道ととなへられん、穢れたるものはこれを過ることあたはず、ただ主の民のために備へらる 、これを歩むものはおろかなりとも迷ふことなし。かしこに獅をらず、あらき獸もその路にのぼることなし、然ばそこにて之にあふ事なかるべし、ただ贖はれたる者のみそこを歩まん。エホバに贖ひすくはれし者うたうたひつつ歸てシオンにきたり、その首にとこしへの歡喜をいただき樂とよろこびとをえん、而して悲哀となげきとは逃さるべし。
↑まあ前章から意訳すれば「何もかも最悪だけどがんばれ、絶対いいことあるから」って感じですかね。優希が久の言葉を思い出して立ち直った、長野の決勝戦が連想されます。立先生のメッセージを感じませんか?
新約聖書>マルコ傳福音書第14章
(略)來りて、その眠れるを見、ペテロに言ひ給ふ『シモンよ、なんぢ眠るか、一時も目を覺しをること能はぬか。 なんぢら誘惑に陷らぬやう、目を覺しかつ祈れ。實に心は熱すれども肉體よわきなり』