三尋木咏・回顧録覚書-5- 「遠望」

Date:2019年6月17日(月)

2 あの日は確か……母親の誕生日だった。

 数日ほど寝込んでいた母親が「家族水入らずで山に行きたい」と言い出し、三人で山に出かけることになった。

 お父さんは最初反対していたが、母親が珍しくごねて、最終的には折れたお父さんの予定が開いたのが母親の誕生日の日だった。

 いや、忙しい人だったから、元から母親の誕生日には予定が開くように調整していたんだろう。

 山に行くと言っても、歩いて山を登ったわけでは無く、車で山の中を走りつつ、途中の休憩所や展望台で休みながら移動するというものだった。

 車中で母親が自分の父親――私の祖父のことを語ってくれた。

 祖父は山が好きで、病気になるまで毎月のように歩いて山へ出かけていたらしい。娘である母親もそれに付き合わされ、あんまり身体が丈夫じゃないのに山登りに行ったりしていたんだとか。病気で倒れてからは車で山を走るだけになったみたいだけど。

 母親は山登りが嫌いだったけど、ただ、高い山から望む遠景は好きだったらしい。

 この日、お父さんの運転で来た山々も母親の思い出の場所だと言っていた。

 立ち寄った休憩所で、お父さんに電話がかかってきた。どうも大事な仕事の電話だったらしく、私と母親の顔色をチラリとうかがいつつも、お父さんはその電話にでてしまった。

 お父さんを車中に残し、私と母親は手を繋いで山からの景色を見に行くことにした。確か私は……母親の誕生日なのに仕事の電話を取ったお父さんに憤慨しつつ、苦笑を浮かべた母親にたしなめられていた。

 私の手を握った母親は「こっちの方がよく見える」と柵をまたいで、木の枝を掻き分け、その先へ、崖のそばまで連れていってくれた。

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